食べ物とか旅行とか

東京在住 アラサー社会人の備忘録です。

どうやったら英語でジョークが言えるようになるか

mokich2005-11-29


 私は、外国語をマスターできたという1つの目盛りに「その言葉のジョークが分かる」というのがあると思っている。文法的な話はもちろんだけど、会話では若干ラフな言葉の形になるのはどこでも一緒なのではないか。そして、それは特にジョークのような笑いが伴う所で現れるのではないか。だから、「ジョークがわかる」という事は、笑いを共有できる訳だから、語学レベルとしては結構上なんじゃないかな。
 さて、去年教職課程で履修していた「指導法研究」の授業。もともと教職課程の教育学部設置の授業はろくなものがないような気がしていたけど、これは特にひどかった。先生は心のあまり広くない、メカを駆使する大阪弁。携帯いじっている学生を見つけようものなら授業を中断してまで注意する。授業の進行は基本的にパワーポイント。でも、それってパソコンでやる必要ある?ってな事も立派な画面として登場する。課題の指事も、なんだか曖昧。で、結局これはやってこなきゃいけないの?それとも来週授業中にやるの?歯切れ悪く終わらないでほしい。唯一良かったのは、私は国語か社会(現代社会か政経)か、英語で迷っていたので、とりあえずどっちに転んでも平気な共通科目から履修していた。そして教育実習中の授業計画を作ってみようという時間に「現代社会」の教科書でやってみた。先生がたまたま近くをお通りになって、私のつたない計画表をご覧になり、なんと「社会は人気がないし、学生も受験に必要ないから大変だぞー。どうやって関心を持ってもらうかが大事だから、頑張れ。」と仰ってくださったことくらい。彼自身の授業進行を眺めていて、あまり参考にはならなかったような気がする。
 最近、北欧地域の学習方法に興味があって、目に付いた記事やらを見ているのだけど、例えばフィンランドでは1学級が確か15〜25名程。偉い人のコメントでは「我々の国は人口がたった500万人。落ちこぼれは作れないのです。」とあった。対して日本は1億2000万人超。今週の週刊誌ではさかんに「下流」にちなんだ特集が組まれている。企業であれ大学であれ、色んな所で「二極化」が進んでいる今、ついに人間も二極化してしまっているらしい。この二極化っていうのは、例えば語学学習の場面でもある事だと思う。国語や外国語で、テキストを読む場面にて、私はいつもつっかえた。つっかえると遅れをとるので、読みながら理解するのは後回しにしてとりあえずみんなが読んでいる所までスキップする。しかも後回しにした「理解」なんて自分でやる訳はなく、結局その時間は「発音の練習」というよりは「それっぽく、みんなに合わせて声を出す」という時間であった、少なくとも私にとっては。1度も読まないよりは良いんだろうけど。どこでも「みんなに合わせる」事が大事なんですな。きっと。
 それが現れているのかどうだかっていうのは分からないが、私が旅行している時に日本人に会ったとする。するとやっぱり日本人同士だし、どういうルートでここに来ただの何がおいしかっただの話をする事が多い。しかし例えばそこにマレーシア人や韓国人もいたとして、全ての日本人+マレーシア人+韓国人で話をするかというと、そうはならない。やはり私達は英語に不自由な場合が多いから、日本人がいるなら日本人としゃべる傾向にあるようで、たとえ私が1人でめちゃくちゃな英語で外国人に話しかけようものなら「すごーい」「どうしてそんなに話せるの」「私なんて全然ダメ」みたいな事になりかねない。(いや、話せてないって。かなり幼稚な英語なはず。)それに対して、もちろんそうでない場合もあるのは承知だけど、私が出会う外国人は英語でのコミュニケーション能力に長けているように思う。少なくとも、日本人が「海外旅行もOK」と言うレベルではない。だって、英語でとどこおりなく会話をして、発音こそめちゃめちゃであっても、なんかジョークを飛ばして笑い転げてたり、雰囲気がもう昔からの親友みたいに近い感じ。それを前にして日本人は比較的もの静かに話すので、彼らが「日本人て静かだねえ」らしき事を言っているのもわかるけど、今さらそこにツッコミを入れるものなんだか気後れがして…。随分と英語を学んで来ているのに、全然活きないな。まあ、英語を学ぶ動機が、英検のため、とか就職のためだとモチベーションはそんなに上がらないか。普段使わないもの。英語の教育方法はもっと工夫の余地がありそうだ。駅前留学に高いお金払うくらいなら、生活費の安い国へ飛んでしまった方が楽しそう。