食べ物とか旅行とか

東京在住 アラサー社会人の備忘録です。

善悪の判断基準はなんですか

 「やっていいこととわるいことがあるでしょう!」と怒られている子どもを見かけたりするけど、じゃあやっていいこととわるいことの境目は何か?


 先日、友人に「人生について一生懸命スピーチするからぜひ来てほしい」と言われてとある発表会みたいなものに行ってきた。詳しい事は聞いてなくて、着いてみるとセミナー会場といったおもむき。約20名の学生(主に就職活動中)が1週間セミナーに参加し、自分の未来の事を考え、その答えを今日発表します!って感じだった。

 ばっちり競争原理が導入されており、学生達は6グループに分かれているがプログラム構成によって参加者が発表を聞けるのは2グループのみ。プログラムには20分のプレゼンを聞く時間が2回あり、それぞれの時間、6グループの中から選んだグループのブースを訪れて聞くのである。だから最初に各グループが「うちのブースに来て下さい!」とアピールをする。まあここまでは良い。

 いざグループを選ぶ時になると「ぜひすいているブースにお立ち寄り下さい」との案内が流れる。さっきまで「うちのブースに来て下さい!」と競争させておいて、ここで同情心に訴えるか?

 発表は、まず過去のセミナー参加者が今からスピーチをする学生の他己紹介をし、それから学生が5分の持ち時間で「私の夢は!」とか「みんなに感謝してる!」とか、その理由を述べる。この他己紹介がまた微妙。スピーチをする本人達は緊張し、感極まって泣きそうになったりしているのに、この他己紹介がさめざめしていて全く聞いていて魅力を感じない。本当にサポートしてあげたいと思ってるの?と思ってしまう。スピーチ後、私たち聴衆(ていうか司会者は私たち聞き手の事を「聴衆」と言っていた。これって私たちを客観的に示す言葉ではあるけど、私たちに呼びかける言葉じゃなくないか?失礼な。)は評価シートを渡され、論理的かとか、夢が具体性を持っているかとかを書き込んで最後に渡す。これを書く時間にも「あたたかいコメントをお願いします」って。なれ合いな雰囲気。

 スピーチしてる内容は悪くなかった。人に感謝する気持ちを忘れないとか、将来先生になるんだとか、そういう気持ちはとても大事だと思う。し、同世代でこういう事を大声で叫べるってのは心強いなあとも思う。けど、それを表現する言葉が当たり前すぎて、熱意は態度から伝わってくるんだけど言葉がなかなか響いてこなかったりした。ていうか、本人の感じているものと、口から出てくる言葉の間にギャップがあるんだろうなということが感じられてしまって、そこは彼らの責任ではないにしろ少し残念。

 このセミナーを主催している会社は学生向けのこういう啓発セミナーの他に、企業の採用コンサルティングなんかもしている。最近はこういうビジネスが大きくなっているようだけど、学生と企業の両方を1つの企業がコンサルするってことは、その企業によって採用活動がコントロールされちゃうんじゃないかという不安を覚えなくもない。本当に正しく学生を見極める力を提供しようとしているならばそれば評価に値すると思うが、それは私たち学生には知る由もないし。世の中の企業様、採用が会社の未来を大きく左右させる一大事という事は理解しているつもりです。でも、だからこそ、人に任せたりせずに自分たちの目で、自分たちの基準で見極めてほしいと、一学生は思います。


 セミナー後、「まあ、こういう一生懸命になれる場所が企業から無料で提供されているならば、まあ楽しい思い出にはなるだろうな」と思ってもらったチラシとか見てたら「セミナー参加費 3万円」と書いてあった。セミナーとして会社がセッティングするのは3日間。それ以外の5日間くらい(発表への準備期間)は自分たちのグループで集まり話を詰めて行くらしい。てことは、1日1万円かー。。 こういうセミナーってのは原価も相場もあってないようなものだから、高いのか安いのかは参加者のみぞ知る。

 今の日本では、何がよくて何が悪いかって判断する基準が曖昧で、そのためにものごとをはっきり白黒言いづらくて、自分の意見を力強く主張するってことがしにくいのかなと思う。判断基準の1つには宗教ってのもあると思うが、キリスト教だったら答えは聖書にある。仏教だったらお釈迦様がこう言っている、ってな具合に、どこかに答えがある。けど、日本だったら、道にも草にも太陽にも全てのものに神様が宿っているんだよとか言ったところで、現代人にはその気持ちはみじんもなさそうだし。だからこそ、こういうセミナーが儲かるようになるんだろうなあ。